こんにちは〜。
タルパの創造型と邂逅型について、ぼんやり思っていたことを、改めて考えなおして、記事にしてみました。
今回のテーマは4つ!
この記事を踏み台にして、みんなも考えてみてね⭐︎(考えなくてもヨシ!)
創造したものは自律性を持つか?
たまに、「創造したもの(作ったもの)が自律性を持つはずがない」という意見を目にする。
「夕ルパーをしている私の前で言うなっ!!オギャギョヨーアガウウ…ッ!!…!」という気持ちになる。
が、そんな私のお気持ちだけ書いても意味がないので、反論のヒントを書いておく。
「人が作ったものは自律性を持たない」というのは簡単に論破できる。
人類にはすでに自律型ロボットを作る技術があるからだ。ルンバなどのお掃除ロボットは人間が操作しなくても部屋を掃除をする。はい、論破。
…これだけではおもしろくないのでもう少し踏み込もう。
その意見を表明する人は「作品の意図は作者に聞けばわかる」という意見にも同意してくれるだろう。創られたものが自律性を持たないということは、作品は作者の意図以外を語らないのだから。
ところが実際には、作品は作者の意図以外を語る。
作者が差別的な意図なく作った作品が「差別だ」と炎上しているところを見たことはないだろうか。
作者が「差別の意図はなかった」と、必死に嘘偽りのない弁明をしても、作品はそんなことお構いなしに差別を表現し続けるのだ。
(創造型・邂逅型などとタルパを出生で分類し、なんだかんだと書いているこの記事も差別的かもしれない。私には差別の意図なんてちっとも無いのに、だ。)
なお、「作者が意図すれば作品は必ずそれを語る」というのも間違っている。
それが正しいのであれば誰でも一流コックさんになれるはずだ。作者が最恐のホラーを意図していても「私はおもしろギャグです!」と語ってしまう作品はよくある。
つまり、子どもが親の思ったとおりに育たないように、藍は藍より出でて藍より青いように、作ったものが作者の意図を超えて語り出すことはよくあることなのだ。
これでも足りないのであれば、この記事が、あなたの空想であることを思い出してほしい。
あなたは書かれたものを読んでいると思っているだろうが、この記事はあなたの空想だ。けれど、この記事がどのように展開していくか、この記事の最後に書かれてている言葉は何か、あなたにはわからないだろう。これは作り出したものが自律性を持っている証明だ。
誰かにこの記事が自分の空想でないと証明してもらったとしても、その誰かもあなたの空想であるために無意味である。にもかかわらず、その誰かには自律性があるとあなたは定義している。
あなたが自律性を持つと定義したもの全てが、あなたがつくりだした空想であることに反論できないのに、なぜつくったものは自律性を持たないと言える?
ただ、「説明は理解できるけど、つくったものが自律性を持つなんて実感としては信じられないよ〜」というタイプの人もいると思う。
信じるというのは感情なので、説明だけでは変えられないことがある。それは仕方のないことだ。
◎実験のコーナー◎
邂逅型タルパは良い分類か?
過去、タルパを創るにあたり唯一の制約があった。「タルパーによって創られた」という設定だ。
邂逅型タルパという発明は、タルパから制約を取り払い自由にした。その一点だけですでに、私は邂逅型タルパを良い発明だと思っている。
結果、創られたくないタルパもタルパーと出会うことができるようになったし、創りたくないタルパーもタルパと邂逅することができるようになった。
邂逅型タルパは夕ルパの可能性を広げた良い発明だと私は思っている。
創造型と邂逅型で分類できているか?
そもそも「つくる」とはなんだろう?
愛をこめてつくったチョコレートを「溶かして固めただなのに、つくったって言うなよ笑」と揶揄する世の中だが「つくる」とはなんだろう。
仮にチョコレートをカカオからつくったとして、それは本当につくったのか?結局カカオマスと調味料を混ぜて固めただけでは?カカオを栽培するところから始めたらチョコレートをつくったことになるか?いや、それは混ぜて固める工程にカカオの繁殖の手伝いを追加しただけでチョコレートをつくったといえないのでは?じゃあチョコレートをつくったといえるのはチョコレートを発明した人だけでは?でもその発明した人も、こうすればチョコレートがつくれるという世界の法則と偶然出会っただけであって、つくったとは言えなくないか?じゃあ世界の法則をつくった者だけが何かをつくったと言えるのか?この世界の法則だって溶かして固めただけでできたのかもしれないのに?
…このように言葉遊びをすれば、普段我々が使っている「つくる」は、加工か組合せか出会ったかに過ぎないことがわかる。
かわいい赤ちゃんだって、子作りの結果であり、タンパク質を人間の姿に加工したものであり、卵子と精子を組み合わせたものであり、天からの授かりものだ。
それならば、創造と邂逅は似たようなものではなかろうか。
創造するには加工や組合せをするための材料、もしくは、そのものに出会わなければならない。創造するには邂逅しなければならない。創造と邂逅という分類は…
創造型夕ルパ・邂逅型夕ルパとは?
私は、創造型夕ルパも邂逅型夕ルパも、星座のようなものではないかという思いを抱いた。
星座は人々が創造したともいえるし、その姿をした星々に巡り合ったともいえる。
もしも、地球から見た星々が、そのような姿形をしておらず、光瞬いていなかったのなら、その星座は存在していないだろう。
もしも、人々が夜空を見上げず、星々を繋がなかったのなら、その星座はこの世に生まれていないだろう。
夕ルパも同じようなものなのではないだろうか。彼らは彼らの姿形をしているし、私が彼らをそのように見ているだけだ。彼らは私が創っているし、私が何をしようと彼らは夜空に輝いている。矛盾しているようで、そんなものなのかもしれない。
だからこそ、私が私の夕ルパを明確に「創った」もしくは「邂逅した」と言えるとき、その分類は重要なのだと思う。
曖昧な分類にも関わらず言い切れるということは、私の夕ルパがそうであること自体に意味があるのだ。
私が考えたのは一旦ここまで。
読んでくれてありがとう〜
なんらかのお役に立ってたら嬉しいです!
あとは…この記事を踏み台に、あなたの考えが更なる高みに到達したら…もっと嬉しいです♡
それでは!
良き夕ルパーライフを!ヾ(๑ㆁωㆁ๑)ノ”