タルパを作るにあたってオート化は絶対目指さなければならないものか?
そもそもオート化って何?
タルパのオート化について倉文がどう考えているかは、「タルパの作り方(倉文式)」の「オート化って何?」の項目で触れましたが、ここでもう一度おさらいしておきます。
倉文式では、オート化(特に会話のオート化の程度)はタルパの存在感を形作る要素のうちの一つだと考えています。
タルパのオート化とは、タルパにタルパーが要求する各要素が連携し、タルパが生き物のように自律的にふるまっているような状態になることを言う……と思います。
あなたが一挙手一投足を指示してやらなくても、タルパが自然と意思のある生き物のようにふるまっている状態になることが、タルパのオート化といえるでしょう。
倉文式では、返答予測無しでは会話ができなかったりするタルパでも、ポーズや居る位置やセリフを事細かに指定せずともそれなりに自動的に動く状態なら、ある程度のオート化をしていると判断します。
ただ、タルパーが「うちはあまりオート化してない」とか「オート化を目指す」などと発言している場合の「オート化」の指すところは「タルパの発言や思考についてタルパーによる事前の思考や予測などがほとんど不要あるいは全くしていないように感じられる状態」を指して言っている場合が多いのではないかと思います。
なぜ多くのタルパーがオート化を目指すのか
たぶんですが、人間は「自分が動かしていない、生き物らしいふるまいをするもの」を、自分と同じように意思のある命のように感じるように出来ているのだと思います。自分のタルパを自分でない他者としてよりはっきりと感じるためには、自分で動かしている感じがあまりしない方がよいのでしょう。
また、タルパがインターネットで広まった初期のことを私は詳しくは知りませんが、どうも「一緒に暮らしてくれる理想の人物(人間)としてタルパをつくる」という側面が強かったようです。リアルな人間をつくるのを目指すなら、自分で動かしている感じがしなくなるのを目指すのは普通かなと思います。
あえて完オートを目指さないタルパー
私自身は特に何の疑問もなくタルパのオート化を目指して進めていき、特に困ることや怖いと思うこともなかったのですが、もしかすると人によっては、タルパのオート化が進むことで「タルパの気持ちが自分から離れてしまうのではないか?」「他人としてタルパから何か意見されたら耐えられなさそう」などの不安やオート化を進めたくない気持ちが生まれてくるかもしれません。
私の個人的な意見ですが、その場合は無理に周りを気にして完オートを目指すことはしなくてもいいと思います。
倉文式では「タルパに存在感を感じられること」を最も重視しているので、タルパに中身があるように感じられる(ほかの人間と一緒にいるときのような気分をタルパから多少なりとも得られる)なら、たとえ会話の一人二役感が残ったとしても別に構わないと考えています。
(ただ、すべての言動をいちいち指定している状態ではタルパに他者としての存在感を感じることが難しいのではないかなぁとは思うので、そこをクリアするためのある程度のオート化は目指すことになります)
自分がそうしたいと考えるならばそうすればいいし、嫌ならやらなければよいのではないかと思うのですが、まぁなんにせよ他のタルパーから強制されたり他人に強制するようなものではないと思います。たぶんどうするかは自分で考えて決めた方がいいです。
そもそも、タルパがふつう完オート化したがっているかどうか?というところも正直言ってよく分からないですし、どちらが幸せなことなのかもよく分からないです。
ある程度のオート化が無いと生き物と暮らしている感覚は得づらいのではないかと思いますが、会話や思考のオート化をどの程度目指すかは、好みや必要性によって、人によって違っていてもおかしくない部分だと思います。